おきレシとは?

おきレシ History ~レシピサイトおきレシが出来るまで~

レシピはどこから?

千のレシピはどこから集まった?

2011年4月にオープンした「おきレシ」。
そのオープン時にオフィシャルレシピとなっていた、千あまりのレシピはいったい誰が作ったものなのでしょう。
千あまりのレシピは沖縄県農林水産部に保管されていたレシピがベースになっています。
でも、誰が、どんな目的でこれらのレシピを作ったのか。
そんなお話を元普及員の垣花さん、現在も普及員として活躍されている島袋さんに伺いました。

農家のために!

垣花さんが普及員になったのは1974年。
当時の農家は収入も少なく、また重労働のわりに栄養状態もあまりよくない状態であったといいます。そんな中、他県の視察から戻ってきた普及員が、視察で見聞したたことをベースに考えたのが料理コンクールでした。

まず、農家の栄養状態を良くしようという思いで始まった料理コンクールは、各地区を単位に毎年熱心に行われました。農作物を決めて、料理の腕を競い合う。その参加者は農家の台所を預かる婦人たちだったのです。
そのつど多くのレシピが集まりました。集まったレシピは印刷し、簡単な冊子にして配布されました。

元普及員の垣花さん 普及員として活躍されている
		    島袋さん 千のレシピの元になった冊子

おいしく食べよう地産地消

沖縄原風景ともいえるサトウキビ畑。農家といえばサトウキビという時代がありました。現在は、サトウキビのほかにも、さまざまな野菜が出荷されています。
このように色々な作物がつくられるようになった背景にも、普及員の努力がありました。
多種多様な作物を生産することで、農家の収益を増やす。
このことを目的に、料理コンクールの次は家庭菜園コンクールが企画されました。

この企画はまず、家庭菜園で色々な作物を作ってみようというところから始まります。それ以前は、たとえ農家であっても野菜類を他から購入するというのが普通であったといいます。
自分たちで作ったものを自分たちで食べる。地産地消の考え方がそこにありました。
そうやって根付いていったさまざまな作物に対する生産の芽が、多くの種類が県内で生産されている現在に繋がったといえるでしょう。

みんなで健康になろう

これらの地道な活動から、直売所が生まれ、またさまざまな産地加工品が生まれました。
レシピの役割も、「農家自身が健康になる」から、「みんなを健康にする」に変化。県内でとれる農産物を多くの人に味わってもらうため、広くインターネットでレシピを公開することになりました。

農家といえばサトウキビという時代がありました 自分たちで作ったものを自分たちで食べる 県内でとれる農産物を多くの人に味わってもらいたい

普及員とは?

普及事業とは、農業生産性の向上や農作物品質向上のための技術支援、効率的安定的な農業経営のための支援、農村生活の改善のための支援を国と都道府県が協同して行っている事業です。
普及指導員は、技術や知識の普及指導を行ったり、農業者、関係機関と連携して課題の解決を支援するなど、技術を核として農業者と消費者の結びつきを作り、地域農業の生産、流通における確信を総合的に支援する役割を担っています。
全国の普及指導センター等に計約8千人の普及指導員等が配置されています。

普及員のみなさん

おきレシ試食会

2011年4月26日、普及員の方々を招いておきレシの試食会を行いました。作った料理はおきレシのペースとなった1,000あまりのレシピの中から、「ゴーヤー春巻き」「からし菜巻きおにぎり」ゴーヤーのトロピカル風サラダ」「酢豚」等々。
長年の活動で集まったレシピの数々にあらためて感動。沖縄県産食材のおいしさを再認識した一日となりました。

普及員の素顔

普及員の仕事は裏方の仕事。いつもは表に見えない仕事のあれこれをアンケートで答えていただきました。

垣花 千恵
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垣花 千恵

島袋 律子
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島袋 律子

山城 政美
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山城 政美

知念 和子
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知念 和子

喜友名 房江
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喜友名 房江

普久嶺 佳代子
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普久嶺 佳代子

名嘉真 清美
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名嘉真 清美

根路銘 利加
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根路銘 利加

屋良 久美子
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屋良 久美子

喜納 ゆかり
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喜納 ゆかり

更新日:2011.06.10